内田の新譜

CD店の試聴コーナーには、先ごろ発売されたばかりの内田光子の新譜が設置されていました。
前回に続いてのオール・シューマンで、森の情景、ソナタ第2番、暁の歌が収められていますが、彼女のピアニズムとシューマンが相性がいいとはどうしても思えず、なぜ最近の内田は録音にシューマンを継続的に弾くのか、さっぱりその理由がわかりません。

内田の演奏および芸術家としての姿勢には大いなる敬意を払いつつも、このところちょっと懐疑的にもなっているマロニエ君としては、新譜が出ても昔のような期待を感じることはなくなっています。

とりわけグラミー賞を取ったとかなんとかで話題になってはいたものの、彼女の二度目のモーツァルトの協奏曲シリーズは、マロニエ君としては、前作のジェフリー・テイト指揮のイギリス室内管弦楽団と共演した全集が彼女の最高到達点であり、如何なる賛辞を読んでも到底同意できるものではなく、なぜいまさらこんなものを出すのかがわかりません。

モーツァルトで再録するなら、初期の固さの残るソナタ全集のほうであると考える人は多いはずですが、彼女の考えおよびCDリリースに当たっては、ビジネスとしてどのような事情が絡んでいるのやら業界の裏事情などはわかりませんから、表面だけ見ていてもわからないことかもしれませんが、とにかく表面的には疑問だらけです。

フィリップスからデッカに移って、ソロとして出たのがたしか前回のシューマンのダヴィッド同盟と幻想曲でしたが、これは購入したものの何度か聴いただけで、もう聴こうとは思いません。
そのときの印象が残っていたので、もう内田のシューマンは買わないだろうと思っていましたが、試聴盤ぐらいは聴いてみようとヘッドフォンを引き寄せました。

なぜか森の情景からはじまりますが(この3曲なら絶対にソナタ2番からであるべきだと、マロニエ君は断じて思う)、第一曲からして「あー…」と思ってしまいました。この人はいわゆるコンサートピアニストという存在からだんだん違う道へと逸れて、まったく私的な、ごく少数のファンだけのためのマニアックな芸術家になったように思います。
その演奏からは、音楽の真っ当な律動や喜びは消え去り、聴く者は、内田だけが是と考える細密画のような解釈の提示を受け入れるか否かだけで、それに同意できる人には魅力であっても、マロニエ君にはもはやついていけない世界です。
とりわけそのひとつひとつの予測のつかない表現と小間切れの苦しげな息づかいは、まったく乗り物酔いしそうになります。

もっとも耐え難いのは、聴くほどに神経が消耗し、息苦しさが増して、心の慰めや喜びのために聴く音楽でありたいものが、まるで忍耐づくめの修行のようで、彼女がしだいに浮き世に背を向けて、まったくの別世界に向かっているような気がしました。

なにしろ内田光子のことですから、多くの書物を読み、音符を解析し、そのすべてに深い考察と意味づけをした上での演奏なんだろうとは思いますが、結果としてそれは非常に重苦しく恣意的で、音による苦悩を強いられるはめになるのは如何ともし難いところです。
まるで名人モデラーが、現物探求をし尽くしたた挙げ句、一喜一憂しながらルーペとピンセットで取り組む、オタッキーなプラモデル製作でもみているような気分です。

以前の彼女には、ちょっと???なところがあったにしても、他者からは決して聴くことのできない繊細巧緻な組み立てや、圧倒的な品格と美の世界に触れる喜びがありましたが、今は彼女の中の何かがエスカレートしてしまい、独りよがりのもの悲しいつぶやきだけが残ります。

ただし、それはソナタの2番までで、シューマン最晩年のピアノ曲集である暁の歌では、そういう内田のアプローチがこの神経衰弱的な作品に合っていて、やはりまだこのような見事さはあるのだと、変にまた感心してしまいました。
この暁の歌だけは欲しいけれど、そのために前45分にわたる苦行の音楽を聴くのも嫌だし、収録時間のわずか1/4だけのために購入するというのも、もうひとつ決断がつかないところです。

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