完璧の限界

前々回、内田光子のシューマンのことを書いていて思い出したのですが、彼女の録音はもちろんのこと、世界中のコンサートにも同行しているのは、ハンブルク・スタインウェイの看板ピアノテクニシャンであるジョージ・アンマンです。

彼は、現在のこの業界では知らぬ者のいない、いわばカリスマ的なピアノテクニシャンで、ショパンコンクールなどでも、いざというときは彼が万難を排してワルシャワに駆けつけ、他者では及ばないような調整を見事やってのけてピアノを輝かせるといった、もっか最高技術の持ち主といった存在とされているようです。内田とアンマンの関係も、内田のほうが彼の技術に惚れ込んで現在のような関係ができているということを聞いたことがあります。

福岡でのリサイタルでもアンマン氏は同行していた由で、その音をきくことができましたが、それは内田のCDで聴かれるものと、まったく同じ「あの音」であり、最近のCDは、音などは人工的に加工ができるから信頼できないということで非難する人がありますが、マロニエ君は断じてそうは思いません。技術的な可能性としては驚くようなことがいろいろ可能でも、それは真実をより良く適切に伝えるための手段として使われているようで、少なくともメジャーレーベルでは原音に忠実になるよう計らわれているようで、結果的にはかなり真実を伝えていると思います。

もちろん、録音現場で聴く演奏とCDの音では違いはあるとしても、それは環境の違いからくるものであって、CDは加工によって切り刻まれた整形美人のように、まったく別物という意味ではなく、そこに発生するものをより完成度の高い商品として仕上げていると思うのです。

さて、そのジョージ・アンマンですが、たしかにその音は美しく、見方によっては完璧といってもいいのかもしれません。彼の手にかかると、スタインウェイのような個性的なピアノも見事に飼い慣らされた従順な馬のようになり、音や響きにもムラがなく、すべてが過不足無く揃って、尚かつそのひとつひとつの音も甘く美しいもので、とりあえず「恐れ入りました」という感じです。

しかし、実はマロニエ君はこういう調律は見事だと思うし尊重もするけれども、好みとしてどうかとなると実はそれほど双手をあげて好みとは云えないものがあるのです。それは、あまりに完璧なもの特有のつまらなさ、それ故の狭さ、そこから何かを予感して受け取る側が楽しむ余地・余白というものが摘み取られてしまい、バカボンのパパではありませんが「これでいいのだ!」と上から押しつけられているような気がします。

マロニエ君は音楽はもちろん、何事も押しつけられるということが嫌いで、それは自分が自分の意志や感性を介して自由に楽しむという喜びやイマジネーションを奪われてしまうからかもしれません。

おかしな喩えですが、ジョージ・アンマンの手がけたピアノは、スタインウェイがヤマハのような均一さを欲しがっているようにも感じるし、同時にヤマハはスタインウェイのようなブリリアンスと強靱さを欲しがって、互いに相手の個性が羨ましくて仕方がないというような印象を持ってしまいます。

メーカーのことはさておくとしても、新しいピアノ、見事な調整というものは、キズのない最高級の献上品のようで、それはそれで素晴らしいものかもしれませんが、そういうもの特有のつまらなさ、閉塞感のようなものをつい感じてしまうわけなのです。
もちろん、くたびれたピアノや下手な調整がいいと云っているのではないことは言い添える必要もないことですが、少なくともある種の「危うさ」「際どさ」というものを常にどこかに秘めているものを求めているのはたしかなようです。

きっと個人的な好みとしては、そこそこの顔立ちに最高のメイクをして、今の瞬間だけを不当に美しく見せるようなやり方にどこか嘘っぽさを感じてしまい、それよりも、たしかな目鼻立ちの美人が、そこそこの化粧やすっぴんでも美しいなぁ…と感じたり発見したりするときのほうが自分には合っているし、根底のしっかりしたものが鷹揚に構えている姿のほうが性に合っているんだろうと思います。

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