エルガーのバッハ

NHKのクラシック音楽館でのN響定期公演から、下野竜也指揮でバッハ=エルガー編曲の幻想曲とフーガBWV537とシューマンのピアノ協奏曲、ホルストの惑星が演奏されました。
ピアノはアルゼンチンン出身で1990年にジュネーブコンクールで第1位のネルソン・ゲルナー。

ゲルナーのピアノは、繊細で彼の音楽的誠実さを感じるものではあるものの、いささか弱々しくもあり、見るからに迫力やパワーのない「この人だいじょうぶ?」といいたくなるような線の細いピアニストでした。
コンチェルトだからといってむやみに鳴らしまくるのがいいなんて暴論を吐くつもりはありませんが、やはりそこにはソリストとしてのある一定のスタミナ感はもっていただかないとちょっと困るなあ…という気がしたのも正直なところです。
必要とあらば力強い演奏も自在な人が、敢えて繊細さを選び取って行う演奏と、それしかできないからそれでやってるというのは本質的に違ってくるでしょう。

とくに第1楽章では、コンチェルトというよりまるでサロン演奏のようで、彼方に広がるNHKホールの巨大空間をこの人は一体どういう風に感じているのだろうと思いました。
もちろん、豪快華麗に弾くだけがピアニストではないのは当然ですし、そういうものよりもっと内的な表現の出来るピアニストの方が本来尊敬に値するとマロニエ君も日頃から思っていることも念のため言い添えておきたいところです。

しかしゲルナーのピアノは、そういう内的表現というよりは、まるで自宅の練習室で音を落として弾いているつもりでは?と思えるほど小さなアンサンブル的な音で、どうみてもNHKホールという3000人級の会場にはそぐわず、演奏の良し悪し以前に違和感を覚えてしまいました。

いやしくもプロの音楽家たるもの、自分の演奏する曲目や、共演者、さらには会場の大きさなどを本能的に察知して、ある程度それに即した演奏ができるのもプロとしての責務であり、その面の判断や柔軟性はステージ人には常に求められる点だと思います。

それでも印象的だったことは、この人には音楽には一定の清らかな美しさがあるということで、表現そのものは品がよく、こまやかな美しさがあったことは彼の持ち前なのだろうと思います。ただし、このままではなかなかプロのピアニストとして安定してやって行くには、あまりにもスター性もパンチもなさすぎで、コンサートピアニストとして一定の支持を得ることは容易ではないだろうとも思いました。

さて、このシューマンの前に演奏されたのがバッハ(エルガー編曲)の幻想曲とフーガBWV537で、これは本来はオルガンのために書かれた作品ですが、この編曲版を聴くのは初めてだったので、どんなものかとりあえず初物を楽しむことができました。
が、しかし、結論から云うと、まったくマロニエ君の好みではなく、バッハ作品をまるでブルックナーでも演奏するような大編成オーケストラで聴かされること自体、まずいきなり違和感がありました。
また編曲のありかたにもよるのでしょうが、マロニエ君の耳にはほとんどこの作品がバッハとして聞こえてくることはなく、後期ロマン派や、どうかすると脂したたるロシア音楽のようにも聞こえてしまいました。

「バッハはどのような楽器で演奏してもバッハである」というのは昔から云われた言葉で、ある時期にはプレイバッハが流行ったり、電子楽器によるバッハが出てきたりもしたし、だからこそ現代のモダンピアノで演奏する鍵盤楽器の作品もマロニエ君としてはいささかの違和感無しに聴いていられたものでしたが、さすがに、このエルガー版はその限りではありませんでした。

かのストコフスキーの時代にはこういう編曲も盛んで、聴衆のほうもそれを好んでいたのかもしれませんが、ピリオド楽器全盛の今日にあって、切れ味の良い鮮やかな演奏に耳が慣れてきているのか、こういう想定外の豪華客船のようなバッハというものが逆にひどく古臭い、時代錯誤的なものでしかないように聞こえてしまいました。
もちろん否定しているのではなく、これはこれで価値あるものと捉えるべきだと思うのですが、少なくとも自分の好みからはかけ離れたものだったという話です。

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