感情の軽視

最近知り合いの方からいただいた方のメールの中に、次のような一節がありました。
「ピアノでいい音色だそうと頑張るのは、気に入った女性の満足そうな笑顔をみたくてあれこれ頑張るのと似てるような…」

マロニエ君としてはちょっと思いつかない比喩でしたけれども、これはまさに言い得て妙な言葉だと思いました。この方はいくぶんご年輩の方ではありますが、それだけに若い人よりいっそう豊かな情感をもって音楽を楽しみ、ピアノに接していらっしゃるようで、さりげない言葉の中にさすがと思わせられる真髄が込められているものだと唸りました。

何事も知性と情感がセットになって機能しなくては、なにも生まれないし、だいいちおもしろくもなんともありません。とくに現代は、音楽でも、それ以外の趣味でも、それに携わる人達の心に色気がなくなったと思います。
色気なんて云うと、けしからぬことのほうに想像されては困りますが、それではなく、美しい音楽を求める気持も情感であり、それをもう一歩探っていくと色っぽさというものに行き当たるような気がします。美しい音楽、美しい演奏を細かく分解していけば、音楽を構成する個々の音やその対比に行き着き、それを音楽の調べとして美しく楽器から引き出すことが必要となるでしょう。
その美しい音を引き出す動機は、情操であり、とりわけ色気だと云えると思います。

現代の日本人に感じる危機感のひとつに、感情というものをいたずらに軽視し、悪者扱いし、これを表に出さないことが「オトナ」であり、感情につき動かされた反応や言動はやみくもに下等扱いされてしまう傾向があるのは一体どういうわけだろうと思います。
感情イコール無知性で不道徳であるかのようなイメージは現代の偽善社会を跋扈しています。

感情の否定。こういう生身の人間そのものを否定するような価値観があまりに大きな顔をしているので、人は環境に順応する性質があるためか、ついには今どきの世代人は感情量そのものが明らかに減退してきているように思われます。不要な尻尾が退化するように、感情があまりに抑圧され、否定され、邪魔者扱いされるようになると、自然の摂理で、そもそも余計なものは不必要という機能が働くのか、余計なものならわざわざエネルギーを使って抑制するより、はじめからないほうがそのぶんストレスもなくなり、よほど合理的というところでしょう。

こうしてロボットのような人間が続々と増殖してくると思うとゾッとしてしまいます。
というか、もうあるていどそんな感じですが。
人間が動物と最も違う点は、知性と感情がある点であって、その半分を否定するのは、まさに人間の価値の半分を否定するようなものだとマロニエ君は思います。
感情が退化すれば文化も芸術も廃れ去っていくだけで、人々の心の中でも着々と砂漠化が進行しているようです。

電子ピアノは氾濫、アコースティックピアノもなんだかわざとらしい美音を安易に出すだけの今日、本物の美しい音や音楽の息吹を気持の深い部分から願いつつ、ピアノからどうにかしてそれを引き出そうという意欲そのものが失われて、「女性の満足そうな笑顔をみたくてあれこれ頑張る」というような行為は日常とは遠くかけ離れたものになってしまっているのかもしれません。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です