調律の価値

NHKのクラシック音楽の番組で、ある地方都市で行われた演奏会の様子が放映されました。
ピアニストは現在日本国内でしだいにその名を聞く機会が増えてきた方ですが、今回はその方の演奏の話ではありません。

ピアノにとって調律とはいかに大切であるかを、たかだかテレビを通じてではありますが、痛いほど感じたコンサートだったので、このことを書いてみようと思います。
内容がきわどい要素を含むため、特定の固有名詞は一切控えることとします。

この会場にあったスタインウェイは、ディテールの特徴からして、20数年経過したD(コンサートグランド)で、手荒に使われた様子も、頻繁なステージで酷使された様子もないもので、こういうことは不思議に映像からもわかるものです。

第一曲がはじまり、まず感じたことは、この時代のスタインウェイは、明らかに現在のものとは音のクオリティが異なり、それを言葉にするのは難しいですが、まず簡単に云うなら重厚で音に密度があって、底知れぬ奥の深さみたいなものがあります。
どんな巨匠の演奏でも、テクニシャンの超絶技巧にも、まったく臆することなく応じることのできる懐の深さと頼もしさを生まれながらにもっているという印象。

とりわけ今の楽器との差異を痛切に感じさせられるのは、音に太さとコクがあること、あるいは低音域の迫力とパワーで、このあたりはスタインウェイの有無を言わさぬ価値が、まだはっきりとしたかたちで残っていた時代ということを実感させられます。こういう音を聞くと、やはりむかし抱いていたスタインウェイへの強い尊敬と憧れの理由が、決して一時の勘違いではなかったことが痛切に証明されるようです。
「昔のスタインウェイをお好みの方もいらっしゃるようですが、我々専門家の目から見ればピアノとしては現在の新品の方がむしろ良くなっている」などという話は、楽器店の技術者や輸入元の責任者がどんなに熱弁をふるおうとも、ビジネスの上での詭弁としか聞こえません。

利害の絡んだ専門家といわれる人の話を信じるか、自分の耳を信じるかの問題です。

このホールのスタインウェイに話をもどすと、これが自分が本当に好きだった最高の時代のスタインウェイとは云わないまでも、その特徴をかなり色濃く残した時代のピアノであることは、もうそれだけで嬉しくなりました。
しかし、しばらく聞いていると、せっかくの素晴らしい時代のスタインウェイであるのに、まるで迫ってくるはずの何ものもないことに違和感を覚えはじめます。ピアニストも熱演を繰り広げているのですが、それが即座に結果として反映されないことに、多少の焦りがあるようにも感じられました。

それが今回書きたかったことですが、これはひとえに調律の責任だと思いました。
まったく冴えがなく、音楽に対するなんら配慮のない無味乾燥なもので、音は解放どころか、完全に閉じてしまってなんの表現力もないものでした。
どんな調律が良いのかは、マロニエ君ごときが云えるようなことではありませんが、すくなくとも演奏という入力を雄弁な歌へと変換することで、有り体にいえば、聴衆の心にじかに訴えかけるような「語る力」を楽器に与えることでしょう。

さらに技術者も一流どころになれば、調律に際し、ピアニストの奏法やプログラムにまで細やかな考慮が及ぶことで演奏をサポートするわけです。
当然ながら、ピアニストの足を引っぱるような調律であってはならないわけですが、今回の調律はまったく凡庸な、音楽への愛情のかけらもないもので、音はどれもがしんなりとうなだれているようでした。

おそらくはあまり使われることのないピアノで、調律師もコンサートの経験の乏しい方だったのだろうと思わざるを得ませんでしたが、あんなに立派な楽器があって、なんと惜しいことかと思うばかりでした。ホール専属でも、競争の少ない地方などでは、きっちり音程を合わせることだけが良い調律だと本気で思っている調律師さんもいらっしゃるのが現実なのかもしれません。

素晴らしく調律されたピアノは、その第一音を聴いたときから音楽の息吹に溢れていて、わくわくさせられるものがあるし、音が解放され朗々と会場に鳴り響くので、必然的に演奏のノリも良くなり、それだけ聴衆も幸せになるわけで、調律師というものは、それだけの重責を負わされているということになるわけです。
マロニエ君に云わせると、良い調律とは、音が出る度に、空間にわずかな風が舞うような…そんな気がするものかもしれません。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です