音楽の本能

広島交響楽団による「平和の祈り」というコンサートが、今年の平和記念式典前日にあたる8月5日、平和記念公園内にある広島国際会議場フェニックスホールで行われ、その様子がつい先日クラシック音楽館で放送されました。

コープランドの「静かな街」で始まり、続いてショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番、ピアノは小曽根真、トランペットはベネズエラ出身のフランシスコ・フローレス、指揮は秋山和慶。

実はここまでしか見ていないので、ここまでの印象となりますが、「静かな街」ではイングリッシュホルンとトランペットをソリストとした作品、ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番もトランペットが重要な位置を占める作品なので、いずれもこのフランシスコ・フローレスが演奏しました。

ピアノの小曽根真は今や言わずとしれた有名な日本人ジャズピアニストで、その活動はときどきクラシックにも足を伸ばし、以前もモーツァルトのピアノ協奏曲ジュノムなどを弾いて、とくに鮮やかな演奏というものとは違うけれど、クラシックのピアニストからは決して聴くことのできない味わいがあって、へええと思った記憶がありました。

今回のショスタコーヴィチでも、指さばきは明らかにクラシックのそれとは違い、どこかおっかなびっくりした様子があって、やはり畑違いのパフォーマンスという感じは拭えませんが、しかしそれで終わらないところに小曽根真の本当の価値があるようです。
ただ譜面通りに正確に弾くだけのカサカサしたピアニストとはまったく違い、どこかたどたどしくもある語り口のなかに、音楽に対する温かな情感がこもっていて、それこそが彼の魅力なんだと思いました。
技術や知識や経歴に偏りすぎて、音楽ほんらいの単純な楽しさや喜びを失いつつあるクラシックの世界に対するさりげないアンチテーゼのようにも感じられました。

第4楽章のカデンツァでは、得意のジャズテイストが織り込まれ、まあとにかく聴いている側としては飽きるということがありません。

しかし、本当の驚きはこのあとでした。
ショスタコーヴィチが終わってカーテンコールの末に、小曽根氏が客席に向かって「これらか皆さんを南米にお連れします」とやわらかに語りかけ、アンコールとしてピアノとトランペットによる演奏が始まりました。

これが大変な魅力に溢れたもので、それまではどこか冷静に見ていたマロニエ君も、思わず身を乗り出して本気で聴いてしまいました。詳しくは知りませんが、字幕によればラウロ作曲の「ナターリャ」「アンドレイナ」、フェスト作曲の「セレスタ」の三曲で、いずれもラテンアメリカの作曲家なのでしょうが、それらが切れ目なくメドレーのような形で演奏され、ここに至って小曽根氏も本来の力を発揮、フローレス氏も全身でリズムに乗って、二人とも何かから解放されたように自由で自然な演奏となりました。

曲がまたどれもすばらしく、ラテン的な哀愁と官能が交錯する悩ましいばかりの音楽で、否応なく圧倒されてしまい、この望外の演奏にただただ感激してしまいました。日本人的倫理観でいうならば、明日はこの記念公園内で恒例の平和記念式典があるのかと思うと、よく主催者が認めたなあと思うほど、ちょっと危ない感じさえ漂うものでしたが、ともかく、これはしばらく忘れられない演奏になりそうです。

音楽を聴く喜びを、根底からリセットされてしまうようで、マロニエ君にとってはまったく予想だにしなかった衝撃でしたし、クラシックの演奏家がどんなに偉そうなことをいっても敗北を感じるのでは?と思われるような、音楽の本能に触れて酔いしれた6分弱でした。
むろん、われんばかりの拍手でした。

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